そんな岡田さんに、車購入で感じているメリットや運転への意識の変化について寄稿していただきました。
学生時代に取った車の免許を、車に乗らないまま失効した。更新を忘れていたのだが、免許証の存在自体を忘れるくらい、運転は自分にとってほど遠い行為だった。
僕は都内に住んでいて、通勤も買い物もすべて電車と徒歩で済んでしまう。運転する機会はなかったし、何より運転が恐ろしかった。むしろ公道を運転するという離れ業を、皆が当たり前のようにやっているのが不思議なくらいだった。
だが2023年、僕は車を買った。そして35才にして2度目の教習所に通い始めたのだ。
第2子誕生で、運転と向き合うときがやってきた
きっかけは第2子が生まれたことだ。
それまでは週末になるたびに、新たな公園を探し求め、上の子(3才)と電車移動を続けてきた。だが3才児と電車を乗り継いで出かけるのは、結構しんどい。ベビーカーだと混んだ電車に乗れないし、駅で降りるたびにエレベーターを探し回る。
乗り換えアプリで検索すると30分で到着するはずのルートに、1時間かかってしまうこともざらにある。ここからさらに第2子が生まれると一体どれだけ大変なのだろう……と気が遠くなった。
茨城にある妻の実家へ気軽に行けるようになりたい、とも思うようになった。僕らは共働きで、どうしても外せない仕事が二人とも入ってしまうときがある。そんな場合に、子どもたちを預けられるようにしたい。
だが妻の実家に行くには、電車だと3時間近くかかる。でも車ならその半分の時間で行けてしまう。車があれば、万が一のときも取れる選択肢が増えるはずだ。
そんなわけで、第2子の妊娠が分かって、運転してみたいかも......という気持ちが芽生えてきた。運転は確かに恐ろしいが、車があった方が我が家にとっては便利である。ずっとペーパードライバーだった妻も、「ペーパードライバー講習に行こうかな」と言い始めた。運転と再び向き合うときがやってきたのだ。
免許がないまま車を買う
だが運転に向き合おうとしても、大問題があった。2度目の教習所、通うの大変問題。
前回、免許合宿で免許を取ったのは、12年前の学生時代のこと。だが今はそんな時間は取れないから、仕事の隙間時間に教習所へ通うしかない。頑張って週に何度か通ったとしても、3ヵ月くらいかかるだろう。しかも授業は全部、一度習ったことのある内容である。大変過ぎる。
でも運転してみたい。
学生時代の免許合宿では、毎日のように教官に厳しく指導された。できることなら、あんな経験はもう二度とごめんだ。
でも運転してみたい。
免許を取るか、取らないか。でも、でも、と悩みに悩み、踏ん切りのつかない自分を後押しするために、僕は強硬手段に出ることにした。
先に車を買おう。
原稿の締め切りがないと記事が書けないように、僕の場合は「運転の締め切り」がなければ永遠に免許は取れない。自分を追い込むため、あえて先に車を買うことにした。
ちなみに都内ではカーシェアを利用する人も多いが、子どもたちのベビーシートが毎回2つ必要であることを考えると、自家用車の方が現実的だった。
免許がないのに車が買えるのか……? と思ったが、調べてみると買えるようだ。車には所有者と使用者という概念があって、免許がなくても所有者にはなれるらしい(=とりあえず購入はできる)。運転手を雇って、自分名義で車を買ったりする人もいるという。よし、買ってみよう!
車のことなど何一つ分からないから、車好きの友人を家に招待し、夫婦でレクチャーを受けた。その際、友人には次の3つの条件を伝えた。
- 車高が1,550mm以下であること。マンションの機械式駐車場に高さ制限があるため
- 運転アシスト技術が優れていること。自分の運転技術に全く自信がないため
- 国産車であること。価格的な理由から
まず1.の高さ制限の時点でかなり候補が絞られることが分かった。昨今人気であるSUV(アウトドアに向いているがっしりした車)とか、ファミリーにおなじみのミニバン(スライドドアなどが付いているがっしりした車)とか、とにかく“がっしりした車”は軒並み候補から消えた。
そうではない車の中でも、運転をアシストしてくれる安全性の高い国産車。その条件で、友人に「これがいいだろう」と勧められたファミリー向けのハッチバックの車を、その通りに買った。かなりの素直さだった。
免許がなくて試乗もできないから、販売店に行って「これください」と買った。あっさり買えた。車好きの方からしたら信じられないかもしれないが、知識がなさ過ぎて迷う余地もなかったのだ。
車を購入したのは2023年の7月末。半導体不足などの世情もあって、納車は11月末になるという。それまでに免許を取らなければいけない。人生でそうそう見られない桁数の請求書を手にし、ついに決心の固まった僕は、近所の教習所へ申し込んだ。
人生2度目の教習所で「道路は社交場」だと学ぶ
平日の夜と休日は育児に追われているので、教習所には平日の日中に通うことにした。週に何度か、隙を見つけて、1回につき数コマの授業を受けた。たまたま近所に教習所があって、通いやすいのは幸運だった。
意外だったのが、35才で通い始めた教習所が——しかも人生2度目の教習所が、かなりためになったということである。
なにせ近いうちに、自分の車を所有して運転するのだ。その事実が確定しているだけで、自然と授業に身が入った。毎回、前回の講義を復習してから最前列の席で授業を受けた。運転教本はたちまち赤線とメモでびっしり埋まっていった。
思えば学生時代は、暇だしとりあえず免許取っておくか、くらいの気持ちで合宿に参加していた。それに比べると、今回の僕は非常に高い意識で授業に臨んでいる。
改めて学んでみると、交通ルールから標識まで、普段何気なく歩いている道にもさまざまな意図が込められていることが分かる。自動運転や電動スクーター、「遠隔操作型小型車」と呼ばれる自動走行ロボットなど、最新のトピックもふんだんに盛り込まれていて面白い。
特に路上教習の授業は“学び”だらけでびっくりした。12年前の免許合宿では、単なる法令や操作方法を淡々と習っただけだったが、今回はより実践的な技術を解説してもらえた。
東京の道路は本当に難しい。住宅街では自転車やバイク、電動キックボードが車の間を次々とすり抜けていく。複数車線の大通りであっても、左車線には常に路駐している車がいるから、頻繁に追い抜き運転が求められる。ただ対向車もひっきりなしにやって来るため、通り過ぎるのを待っていたら永遠に進めない。
そんな難しい道路を走るために、教習所の授業では二つのポイントに重きが置かれていた。「リスク管理」と「コミュニケーション能力(コミュ力)」である。
一つ目の「リスク管理」とは、路上のリスクを事前に把握し、防止することだ。特に運転中、「今走っている道にどんなリスクがあるのか?」ということを徹底的に叩き込まれた。
「今前方を走っている自転車の人が、一瞬振り向きましたよね? 横断しようとしている可能性が高いので、注意してください」
「この交差点、信号の待ち時間が長いですよね。おまけに角にコンビニがある。こういう場所では、赤信号でも急いで渡ろうとする地元の歩行者がいるので、注意してください」
こんなふうに危機予測の思考過程を言語化してもらえるのだ。教習中、心からの「なるほど」を連呼し続けた。
路上教習がスタートした頃は、交通標識に車線、後方の車や自転車など、道路の情報量が多過ぎて処理しきれず、いつも「助けてくれ」と思いながら運転していた。
だが「このタイミングで、一瞬だけこのミラーを見てください」とミラー確認のタイミングを具体的に教えてもらえたことで、以前より冷静に対処できるようになった。決して注視するのではなく、たまにちらっと目をやること。これだけで、自分の車の周囲で何が起こっており、これから何が起こりうるのか、より具体的に把握できる。
サッカー漫画『アオアシ』で、主人公が首をぶんぶん振り回す訓練を積み重ねるシーンがあって、「一流の選手は試合中、常に首を振ってほかのプレイヤーの位置を把握しているから、ボールが来る地点を予測できる」という話だったのだが、それに似ていると思った。
優れたドライバーは、道路の状況を俯瞰的に捉えることでリスクをより的確に見積もれるみたいだ。そんなことを平然とやっているドライバーの皆さん、やはりすご過ぎる。
そして、もう一つためになった教えが「コミュニケーション能力(コミュ力)」である。就活の話ではない。路上における、車と車のコミュニケーションの話だ。
例えば先ほど、「路駐の車を追い抜こうとしても、対向車が常に来てしまう」というお悩み相談を書いた。その解決策がコミュニケーションであるらしい。
具体的には、「車線をはみ出さなければ路駐の車を抜かせない」かつ「いつまで待っても対向車がやって来る」場合は、「ウインカーを出した上で少し中央線にはみ出して、対向車の出方を探る」のだという。「出方を探れ」などという交渉術みたいなことを教習所で習うとは思わなかった。
だがこれが結構有効で、ウインカーを出し、ちょっとはみ出して「この路駐している車を追い抜きたいんですが……」というお伺いを対向車に立てると、意外と減速してくれたり、ちょっと反対車線側に寄ってスペースを空けてくれたりする。車線変更や合流も同様で、まずはウインカーをつけて意思表示をし、相手の車の反応を探ることが重要だという。
道路交通法でも「車線変更の3秒前にウインカーを出さなければいけない」というルールがあり、確かに12年前の免許合宿でも教わった。だがそのときは、規則を規則としてしか捉えられていなかった。
ウインカーとは本質的には車同士のコミュニケーションであり、道路ではこんなにも多くのコミュニケーションが交わされていたのだ......と知って、目から鱗が落ちる思いがした。道路は社交場だった。
2日に一度の「ひとり教習所」
こうして教習所からいろいろな教えを授かり、実践と反省を繰り返した。
以前から「自分は運転に向いていない」とどこかで思い込んでいたのだが、「運転だって、正しい練習をすればうまくなる」という当たり前のことが分かってきた。運転が恐ろしいことに変わりはないけど、ただの漠然とした恐怖が「この場面がなぜ怖いのか?」という具体的な恐怖に落とし込まれていくような感覚があった。
教習が終わった後、毎回そういうことを教官と議論し、一言一句を熱心にメモし続けていたら、「こんな真面目な人、初めてです」と苦笑いされた。「わざわざ2度通って良かった」と思えなければ、なんだか割に合わない気がする。人生2度目の教習所だからこその真面目さだった。
そうして3ヵ月かけて無事免許を取得し、納車を迎えた後も、僕は運転に向き合い続け、ついには「ひとり教習所」を開催し始めた。
前回免許を失効したのは、直接的には期限切れが理由だが、より本質的にはペーパードライバーになったことが原因だったと思う。特に免許取得直後のこの時期に乗らなければどんどん運転が億劫になってしまう。
そこでカレンダーに「ひとり教習」という予定を入れ、自らに運転の義務を課した。公園とかコンビニとか、近所の適当な場所を目的地に設定し、走り回った。教習所に通っていたときのように、2日に一度、用事がなくても必ずハンドルを握るようにした。
最初のうちは、助手席に教官がいないのが不安で仕方なく、「早く着いてくれ」という思いと、「でも駐車が嫌だから着かないでくれ」という矛盾を抱えながら走った。そして帰宅してからは、「あそこはもっとうまくできたのに」「あの場面はどうすればよかったのか」といった反省点がたくさん出てきた。
そういうところをすべてつぶすべく、教習所の教本や、路上教習のメモを読み返した。技能と学科を、まるで教習所のように繰り返した。僕は僕による、僕だけのための教習所に通い続けた。
車によって「寄り道」を取り戻す
「ひとり教習所」のかいあって、3ヵ月がたった頃には運転への恐怖はすっかり払拭された......と言いたいところだが、そんなことは全然なかった。
初めて他県まで一人で行けて、達成感に浸ったと思ったら、狭い駐車場に大苦戦する。初めて首都高を走って、意外にいけると思ったら、複雑なジャンクションで絶望する。「いけるやん」「やっぱあかん」を繰り返しながら、それでも少しずつできることが増えていった。
妻の実家へは、以前より気軽に行けるようになった。大荷物も楽に持ち運べるし、エレベーターを探し回る必要もない。子どもたちは車に乗るとすぐ眠ってしまうので、寝かしつけも兼ねられた。たまに起きて機嫌を損ねてしまったときも、電車のように周囲に気を使い続けなくていい。
このように「行きたい目的地へ気軽に行ける」ようになったのは車の直接的なメリットだが、意外な効用がほかにもあった。「寄り道」である。
僕の住んでいる地域では、東西に3種類の鉄道が走っている。漢数字の三を描くように、どの路線も地図上を横に通っているのだ。だから電車移動を続けていると、横移動ばかりになってしまう。知らず知らずのうちに、移動パターンが固定されていたのだ。
ところが車を運転することで、移動に縦軸が生まれた。縦に移動してみると、近所の景色が違って見えて、こんなスポットがあったんだ、と立ち寄る場面も増えた。街の寄り道を、文字通り、縦横無尽に楽しめるようになった。
また家族旅行で石垣島へ行き、島をレンタカーで走ったときも、車の「寄り道力(よりみちりょく)」を感じた。これまで免許がなくて、車社会の島旅行では苦労していたのだが、車があるだけで、途端にフットワークが軽くなった。
見渡す限りのサトウキビ畑を眺めながら、地元のラジオを流し、窓を開けて風を感じる。島のドライブは最高に気持ちが良くて、寄り道が捗った。
「バンナ公園」という場所に巨大なローラーコースターがあると聞いて、すぐに車を走らせた。その道中に展望台を見つけ、車を停めて景色を眺めた。
小腹が空いたらふらっと街に寄って、小さな商店で買い物をした。地元の人でいっぱいの商店には、見たことのないジュースやお菓子がたくさん売られていて、カゴに放り込む手が止まらない。
路上にぽつんと佇む自販機を見つけ、減速して眺めてみると「ヤギの肉 販売中」と書いてあった。遠い場所へ来た、と感じた。
旅行は、寄り道にこそ楽しみがある。幼い子たちと移動していると、「なんとか目的地にたどり着くこと」ばかりに気を取られがちだが、運転できるようになったことで、寄り道がまた身近に戻ってきた感覚があった。
「運転が怖い」に向き合い続けるために
なんだか最後は「車最高!」みたいになってしまったが、とはいえ車ならではの苦労も多い。渋滞に巻き込まれるのはしょっちゅうだし、駐車場が満車で停められないこともある。高速に乗った瞬間に、子どもが「うんち」と告げたときは絶望した。
何より一度、運転中にちょっとだけヒヤッとする場面に出くわして、肝を冷やしたこともあった。そんなときは、やっぱり運転はなんて恐ろしい行為なんだと震え上がってしまう。
そう、運転は怖い。
技術が向上したところで、その事実はいつまでも変わらない。運転に対して真面目である、ということはその恐怖と向き合い続けることなのだと思う。
そして恐怖と対峙するために重要なのが、いつでもふらっと寄り道できるくらい、心の余裕のあるときに運転することだと思う。あの場所に何時までに着かなくてはいけない、という明確な目的に固執してしまうと、予想外のことが起きたときに焦って恐怖に飲み込まれてしまう。
たとえナビが曲がれと言っていても、曲がるのが怖そうであれば、「なんか難しそうだし真っすぐ行ってみるか」「ついでにコンビニ寄ってくか」くらいの「寄り道心(よりみちごころ)」を発揮することで、恐怖とうまく付き合っていきたい。リスクを可視化し、ほかの車とコミュニケーションを図りながら、運転を楽しんでいきたいと思う。
「脱ペーパードライバー」奮闘記
編集:はてな編集部