取り戻した「走る楽しみ」
伴走者という新たな目標に向け、挑み続ける
ブラインドランナーに寄り添い支える存在、伴走者

2016年9月に開催された、「リオデジャネイロパラリンピック」の視覚障がい者女子マラソン、通称ブラインドマラソンで三井住友海上所属の道下美里選手が、銀メダルを獲得。ひたむきに走るその姿に、多くの人々が声援を送りました。また、銀メダルという快挙により、ブラインドマラソンの認知が、これまで以上に広がったといえます。同時に、ランナーとともに走る伴走者という存在にも、大きな注目が集まりました。
伴走者は、一緒に走りながら視覚障がいがあるランナーの目となり、次に進む方向を伝え、迫る障がい物を避けられるよう合図をおくる役割を担います。ロープの両端を握り合う2人の呼吸が合っているかどうか。このことが成績を左右するため、合図の言葉や方法をすり合わせるなど、日ごろから意思疎通を図っておくことが重要です。道下選手の伴走者として練習する九州本部・河口さんも、その点に留意しています。
河口
「2人で横に並んで走るのですが、秒単位でのペース配分や数メートル先の地面の状況など、広い範囲に気を配りながら、周りの状況をしっかり見て伝えないといけません。マラソンコースは開催場所によって違いますし、1つとして同じカーブはありませんから、無駄なくカーブを回るためには絶妙なタイミングが必要です。そのため、指示出しのタイミングなどを練習の中で何度もすり合わせます。選手の状況を把握し、動きを見て、指示を少し変えてみることもあります。選手と息を合わせ一体となり、結果を出すやりがいのある競技です。」
ブラインドマラソンのルールでは、伴走者がロープで選手を引っ張る行為やフィニッシュラインを先に通過する行為はルール違反となり、必要以上に選手を手助けすることはできません。単に選手と同じスピードで走るだけでは、カーブで内側の人間が前に出てしまうため、注意が必要です。そのため、スピードの加減を繰り返しながら走らなくてはなりません。2人が握るロープや聞こえる息づかい、反応速度から伴走者は選手の疲労度を感じ取るのです。想像以上に過酷な役割といえるでしょう。
元実業団選手とブラインドランナーとの出会い
もともと、河口さんも長距離走の選手でした。幼いころから走るのが大好きだったという河口さんは、地元のマラソンクラブや学校の部活動で走力を磨き、陸上の名門高校を経て、2014年に三井住友海上に入社。女子陸上競技部に所属し、東京で業務と競技を両立する生活を送り始めましたが、実業団のレベルは高く、壁にぶつかり、はね返されることが多くなったといいます。

河口
「学生のときは監督やトレーナーのアドバイスを聞いてみんなでやることが当たり前でしたが、社会人になると自ら考えて動かなければいけないと感じました。逆境に立ったときに、自分の気持ちを立て直すことができれば良かったのですが、そのときは陸上も走ることも嫌になり、いったん実業団から距離を置くことにしました。」
2016年3月に現役を引退し、故郷の福岡に戻ることになった河口さん。異動先で新しい生活や業務がスタートするはずでしたが、ここで運命的な出会いがありました。
ちょうどそのころ、道下選手は福岡を拠点に、多くの市民ランナーの皆さんに支えられながら練習を重ねていましたが、パラリンピックでのメダル獲得にむけて、より充実したサポート体制と安定した伴走者を探していました。そこで、2人をよく知る人事部のスタッフが、ブラインドマラソンの伴走者という存在を河口さんに伝えたそうです。
河口
「このお話をいただいたとき、陸上から離れた私が、また陸上とつながって仕事ができるということがうれしかったですし、『こんなチャンスはもうない、ぜひやってみたい』と思いました。やっぱり、走るのが好きなので。」
道下
「実業団で走っていた選手と一緒に走ってみたいという思いがあったので、うれしい巡り合わせでした。河口さんの第一印象は、すごく穏やかで優しい子。伴走者は平常心が大切ですから、どんな時も平常心を保てる河口さんは、競技をサポートする伴走者にとてもふさわしいと思いました。」
こうして2016年4月から、2人のパートナーシップが始まったのです。
日々の練習や周囲との交流を通じて、走ることの楽しさを再発見
2人での練習は週に2~3日。実際に伴走し、何度も話し合いを重ねることで、道下選手がどのような情報をどのようなタイミングでほしいのか、細かく調整を繰り返します。また、それ以外の日は周囲の環境を把握して道下選手に伝達することを想定しながら、設定されたペースで走る感覚をつかむ個人練習をします。そうした生活を送るうちに、河口さんの心境にも変化があったといいます。
河口
「道下さんと出会う前は、自分のタイム・フォーム・リズムだけを意識すれば良かったのですが、今は身長もリズムも違う2人が、どうやったら一体となって走れるかを、自分一人の練習の中でも考えるようになりました。道下さんが『ほしい』と思うタイミングや言い方で、指示が出せるようになりたいです。」
練習の日々を過ごしていくことで、道下選手を支える市民ランナーの皆さんとの交流も増え、今では「また走ることが楽しいと思えるようになった」という河口さん。日々の業務で得た経験も自分の中で消化して、ランナーとして、社会人として大きく成長しています。

一方で、河口さんの伴走やサポートにより、道下選手が得る部分も多かったといいます。例えば、実業団で実践されていたトレーニングメニューを、道下選手の練習にも取り入れています。また、河口さんの母校を訪問し、強豪校の練習や生徒たちのモチベーションを肌で感じるなど、今まで機会がなかった部分に触れることで、新たな気づきを得ることができたようです。
道下
「福岡では、スポーツ選手として働いているのは私一人でしたので、適切なアドバイスをくれる河口さんは、私の心の支えです。河口さんが同じ職場にいることにより、会社の中でも陸上を身近に感じることができます。お互い陸上経験がありますから、わかり合える部分がとても多くあるのです。逆に、私が伝えきれない部分を代わりに発信してくれることもあり、日々河口さんの存在の大きさを感じています。」
東京パラリンピックでの金、その伴走者という目標に向かって
2人が目指す道の先には、いくつかの大きな大会がありますが、中でも最大の目標として掲げるのは、2020年東京パラリンピックで金メダルを獲得することです。それに向けて河口さんは、自身の走力をさらに高め、伴走者として進化する努力を続けています。
河口
「東京パラリンピックで、道下さんの伴走をすることが一番の目標です。伴走者は選手以上の走力が必要になりますが、私はまだ道下さんの走力に達していません。今は伴走者としての知識やノウハウを身に付ける時期と位置づけ、仕事をしながら障がい者スポーツに関する勉強や練習を行い、いずれは道下さん以上の走力を身に付けていきたいです。そのためには、道下さんとの伴走練習だけではなく自分自身の練習も、限られた時間の中で効率よく、毎日継続することが必要です。今まで支えてくださった大勢の方々に恩返しができるよう、陸上競技部で得た経験を生かしながら、2020年東京に向けて挑戦していきます。」
陸上に関わる仕事に再び就くことができたこのチャンスを生かし、スポーツの振興にも貢献していきたいと語る河口さん。三井住友海上は社会に果たす役割の1つとして、スポーツ振興に積極的に取り組み、ダイバーシティの推進、活力ある共生社会の創造を目指し、パラアスリートを支援しています。そして、道下選手も同様の志を持っています。
道下
「パラリンピックの最大の目標は、共生社会の実現です。私は三井住友海上の社員として、講演活動などを行っている中で、ダイバーシティの推進、多様性を認める社会に対してアプローチしていけるチャンスをもらっています。ですので、今後は河口さんと一緒に、そうした活動にも取り組んでいきたいと思います。」
まずは、2020年東京パラリンピックでの金メダル、そして2人が推進するスポーツを通じた共生社会の実現。この両方を、ぜひ見てみたいところです。
- ※所属部署、役職、内容は取材時点のものです。